カール・タウジヒについて

 

 

カール・タウジヒ(Carl Tausig 1841114日—1871717日)ポーランドワルシャワ出身のピアニスト兼作曲家で、ポーランドに留まらずヨーロッパ各地で演奏活動を行った。ユダヤ系の家庭に生まれ、超絶技巧のピアニストのジギルモンド・タールベルの弟子であった父親(アロイス?タウジヒ Aloys Tausig)に幼いころからピアノの手ほどきを受けた。父も作曲家であり、ピアニストであった。タウジヒは比較的手が小さいかかわらず、テクニックに優れていたという。

 タールベルク(1812~71)とは、「象牙の戦い」と呼ばれる1837年パリでピアノのテクニックをリストと競い合ったピアニストである。

 14歳のころ当時ヴァイマルで宮廷楽長をしていたフランツ・リストのもとを訪ねて師事を認められ、すぐにリストの弟子として有名になる。その後彼の演奏旅行に同行し、ピアノのレッスンを受けながら対位法、作曲法、管弦楽法を学ぶ。16歳のころリヒャルトワーグナーと出会い、献身的な支持者になり親交を結ぶ。また同時期、ヨハネブラームスとも親交を結び、彼の作品を賞賛した。カールは特にワーグナーのオペラを好み、多くの作品を編曲で残している。彼あの作品については、下にまとめた。

 17歳のころベルリンにてハンス・フォン・ビューローの指揮によるコンサートで舞台に立つ。コンサート終演後、彼の技巧的な演奏を賞賛する者もいれば、大雑把でうるさいだけだと批評するものもいた。その後カールはより研鑽を積むため、リストとのいさかいごとも相まって彼のもとを離れた。

 18歳から19歳のころドレスデンに定住してドイツ国内で演奏活動を行った。1862年にウィーンに移利、他の作曲家の交響詩を編曲し、コンサートを開いたが、芸術的な活動においては成功したが収入はよくなかった。1965年でベルリンでピアノ教室を開くが、すぐに教室を畳んでヨーロッパ各地で演奏旅行を行い、模範的な演奏技巧によって知られるようになった。29歳の時にライプツィヒにて、腸チフスにより他界した。

 

と、Wikiの内容を訳してまとめてみたが、他に資料が見当たらない........

 やはり19世紀ポーランドの情勢やユダヤ系の家計ということが相まって、バダジェフスカのように焼き捨てられ、軽視され続けているのか。バダジェフスカは最近再評価の流れがあり、再研究され始めているので今後まとめようかと思う。

次回はタウジヒの作品についてまとめる